<はじめに>
この文章をホームページに上げる前に、地元の祭りを誰よりも愛してくれた「長友宋一郎」氏に
お礼を言わなければなりません。彼が古本屋で見つけた「飛松天満宮祭典の今昔」。この書籍には
お祭りに子どものころから慣れ親しんだ自分ですら知らないこと、おやじや同年輩の方々でも忘れてしまっていた事などが記載されています。町内に住んでいなかったけれども、仕事が忙しくても
天神祭りには必ず参加してくれていた彼。残念ながら40歳の若さで旅立ってしまった。絶望しました。しかし彼から頂いたこの書籍や、毎年の写真・ビデオの数々を何度も見て一念発起できました!本当に有り難う!改めて感謝と追悼の意をここにつづりたく。
「飛松天満宮祭典の今昔」
印刷日:昭和37年1月25日
発行日:昭和37年2月11日
発行部数:500冊(非売品)
編集者:太田 利男 (大分県杵築市据場78)
発行兼印刷人:荘野 章(大分県杵築市西新町433)
印刷所:荘野印刷所(大分県杵築市西新町433)
*杵築市立図書館で見ることができます!
序
八坂善一郎元杵築市長の文面(自分の名付け親です)
杵築の天神祭と言えば、古くから近郷近在はおろか遠方にまで知られた古式豊かな祭りの
行事である。神輿の豪華さはもとよりのこと威儀を正したお供廻りの行列は地方には稀な格式
を具え、昔から京の葵祭にもたとえられてが鄙ぶりの趣の深さは夏まつりの尤もとでも言うべき
あろう。この祭りは、歴代藩主の崇拝と郷土の尊信とを集めて、長い歴史の中に維持せられて
来たのである。しかしながら時代の推移はこの祭行事の上にも、幾多の変遷があり、今日に
おいては既に昔日の悌を失い、懐旧の嘆しばしばであることは、ただ単にわれわれの感傷
ばかりのことでもあるまい。
私はこの伝統と由緒あるまつりの衰微を惜しんで、宮の関係者並に町内有志の方々と、
いくたびか会合し映じて、この美しい郷土の祭りを維持存続することには多くの困難があること
を知り、個人容易のことではないことをおもったのであった。
このたび、土居寛申氏が古事を発見せられ、太田利男氏の手によって整理されたものをまとめ
市において刊行を計画しようやくその運びとなったものである。いうまでもなくこの記録は
天満社に関するまことにきちょうな文献であると共に、私見をもってすれば、昔日の盛を再び
今にするよすがとして期待したいとも思っているのである。
学びの伝統の巌かししさに経つ杵築の地に飛び待つ天神の故事の床しさを伝える天満社の
鎮座はま故あるものと思うことのしきりである今日この頃である。
*この文章よりすでに昭和37年2月時点で、「伝統のある杵築の天神祭り」の衰退が
危惧されています。また編集にあたった太田氏の序文には「終戦後から近来は氏子の祭典
への関心と盛り上がり漸次うすらぐ傾向にみられます。この長い祭典の跡が消失し、知る人
さえもいなくなるのでは」とも記されております。私が生まれる前から既に危機が始まって
いたのです。
天満宮夏の祭典の歴史 (飛松天満宮祭典の今昔から抜粋)
正保2年(西暦1645年) 宮元武蔵が亡くなったといわれる年に 松平家七代英親公が
この木付(正徳2年西暦1712年に杵築と改称)に入部されて以来、明治維新に至までの間
代々善政を重ね業績をつんで庶政大いに改まり、敬神崇祖の念も高まり御社参り、御祈願、御寄進
御奉賛等の数々は限りもなく領内の各宮々に及んでおります。地元の若宮八幡社、天満社、
貴船社、金比羅社は格別であり中でも天満社は「万の欽仰」と力入れが強かったので盛大な祭りとなった。
7月24日 宵宮。
天満社にてお神楽が行われる
午後9時から富坂から天満社に
向けて段尻の演芸が奉納される
(神納)
7月25日 大祭
10:00 天満宮出発 毛槍を先頭に
御輿や山車が祇園社(八坂神社)
へと坂を上っていく。(お下り)
11:30 八坂神社からお城方面へ下り
上町からさらに仲町にくだり谷間町
本町魚町筋を通って元宮へ
15:30 元宮から城鼻へ杵築大橋手前で
折り返しバスターミナルを経由して
杵築神社へ
20:00 杵築神社から天満社へ戻る
(お上り)
飛松天満宮
杵築市杵築大字南杵築260番地
お旅所
・祇園社(八坂神社)
杵築市大字杵築1162番地
・天満宮元宮
杵築市大字杵南築92
・杵築神社
杵築市大字杵築2-1
昔の案内版が出てきましたので 追加しておきます